朔夜に雪の白と星の蒼
二月。春まだき深雪の季節。すでに黄道は南へ傾き、陽の温かさだけが時の移ろいを告げる。光の春、陽春である。
こちらは拍手お礼としてアップしていたものです。
暖流の流れる海に面しているとはいえ、峻険な奥羽山脈から吹き降ろす風は風花を含んで冷たく凍え、雪消を迎えるには今しばらく待たねばならない。地上の色彩を
すべて白く塗りつぶされてしまうこの時期ばかりは精強な伊達軍といえども身動きはとれなかった。
農民でもある一般兵士たちは春の陣触れに備えて武具の手入れをしつつ冬の農作業に精を出し、麾下の武将はこの寒さを利用しての鍛錬に余念がない。
いずこかへ攻め込むことも、また敵に仕寄られることもない冬の間は厳しい寒さは別として、どこか長閑な空気が漂うものである。
だが、この奥州を束ねる若き覇者は。
「政宗様! ……まったく、どこへ行ってしまわれたのか。まだまだ仕事は残っているというのに」
ひとかどの武将であると同時に為政者でもあるだけに、武芸にのみ励むわけには行かない。この時期の間に溜った政務を片付けてしまわなければならなかった。
来る日も来る日も書類に目を通し、指示を出して事務方の配下と共に詮議をし、書状を出して密偵を放ち……と、戦があるとき以上に忙しいのだ。それは連日深夜
近くまで続けられることになる。
珍しく雪が止んで雲が晴れたこの日もまた。
紙の束を山と抱えた小十郎は、つい先刻まで主君が机に向かっていた居室がもぬけの殻になっていることに盛大に溜息をついた。仕事が出来ないような暗君ではなく、
むしろ本気を出せば内政にも優れた能力を発揮する彼だがいかんせん一所に留まっていることを嫌う性分だ。これまでに何度監視の目を逃れて遊びに行かれてしまったことか……。
政を疎かにすれば、天下を狙うなどとてもではないが無理だ。今日こそはみっちりと説教をしてやろうと心に決めて庭へと続く障子を開け放った。この刻限では門も
閉まっている。城内のどこかに居るはずだ。
「冷えると思ったら、やっぱり晴れていたか」
しっかりと着込んだ着物を通してさえ肌を粟立たせる、刺すような冷気。早々に見つけて室内に戻らないと風邪をひいてしまいそうだ。廊下と大して差がないほどに雪が
積もった庭を見遣り、主の名を呼ぼうと吐く息を白く凍らせる夜気を吸い込んだ時。
「Hey小十郎!」
思わぬ方向から声がかけられた。外だ。だが、その姿は見えない。
「政宗様! どちらに!? 早く戻って仕事の続きを」
「こっちだ、こっち。庭に下りてみろよ」
早速小言モードに入りかける小十郎を遮って、幾分楽しげな声が外へ出るように促す。
「こんな刻限に雪遊びでもなさるおつもりか。悪ふざけも大概に……」
「固い事言うなよ。いいもん見られるぜ」
「何ですかそれは」
何があるというのだろう? 不審げに首を捻るがここで断ったらへそを曲げて戻ってくれそうにない。庭へ降りるための石段に置かれた草履を履き、外へ出た。
積もったばかりの新雪にも慣れたもので、危なげのない足取りで歩を進める小十郎に、姿はなく声だけの政宗が再び声をかけたのは、ちょうど庭の真ん中まで来たときだ。
「小十郎、Freeze!」
「は?」
上!?
とっさに言われたことの意味を捉えそこね、思わず頭上を振り仰いだ小十郎の視界に、大きな影が降ってきた。
「Yaaa-ha!」
「うわぁっ」
自分めがけて落ちてきた『それ』をかわす間もなく痛烈なボディアタックをくらい、雪の上に倒れ、いやめりこんだ。
「何やってるんだ、ちゃんと受け止めろよ」
「それはこちらの台詞です! いきなり何をするんですかッ」
屋根の上から小十郎めがけて飛び降りた政宗もろとも新雪へ突っ込む形になった小十郎はそれでも流石というか政宗の頭をしっかりと抱え込んでいる。雪がクッション
の役割をして、怪我はないようだが……。
「子供の頃はよく籐五郎とこれやってたろ」
「だからって今やることではありませんな」
雪まみれになりながら、小十郎に覆いかぶさるようになった上半身を起こし、ニッと笑ってみせる。
「本当は屋根の上が特等席なんだけどよ、どうせお前はダメだって言うしな」
「?」
そのまま身体をずらして、ぼす、と音を立てて大の字に寝転がった。
「見てみろよ。今日は朔だ、いい眺めじゃねえか」
朔、とは新月のこと。普段は地上を照らす月明かりのない夜空は射干玉色だ。
濃い墨を流したような夜空には、冬の星座が金剛石を砕いたほどの輝き。
燃える赤、清冽な白、煙る黄。そして、冴え渡る蒼。
悠久の時をこえて降り注ぐ、瞬く星辰のひかり。
「こうやって寝転がって星を見上げると、まるで手に取れそうに思えるんだ」
言われ、絢爛たる夜空を見上げる小十郎の隣で政宗は己が右手を伸ばした。
手の届かないところにあるものが欲しい。いつでも、望むものは。
小さな呟きに混じるのは、力に満ちた若い野心と、ほんの少しだけの哀しみ。
「……ですが、このままでは冷えてしまいます」
伸ばした右手を包み込むように左手で握ってやれば、すっかり冷え切っている。
「Ah. わかってる。言われなくても仕事に戻るさ。……だがもう少しだけ見ててもいいだろ」
今にも零れ落ちてきそうな星空の下、全てを凍りつかせる北国の寒い夜の中で繋いだ手から伝わる仄かな熱だけが温かい。
本当に欲しいのは、手の届かない星ではなくてこの左手なのかもしれない。
「なぁ、部屋戻ったら温めてくれよ」
夜空から、隣で横たわる頬に傷のある横顔へ視線を移して。
「それはできかねます」
「いいじゃねえかちょっとくらい」
「今夜中に終わらせなければいけない仕事がございますゆえ」
「じゃあさっさと終わらせるから」
「……そういう問題ではありません」
「Ha! つまんねぇ奴」
あからさまな『お誘い』に呆れた溜息交じりのいらえを返せば、幼い顔でむくれてそっぽを向いてしまう。その表情が妙に可愛らしく思えて、繋いだ手をしっかりと握り締めた。
明日の仕事は極力少なくしてやろうと思いながら。
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なにげにロマンチスト筆頭。