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Hitmen'n Lolita #32
時は戻って、成実が奪われた車を捜している頃。
やっと完結でございます……。な、長かった!!
このシリーズは政宗様が16歳の女子高生になっています。
「……痛いよソレ」とか思っちゃった人は読まないでくださいませ〜。
綱元は雑居ビルの前に車を止め、先刻殴りつけた小十郎が出てくるのを待っていた。
彼の性格を熟知しているからこそ、綱元は小十郎を信頼している。
必ず、政宗を助けに行くと。
奪われた車が放置されている場所をカーナビに入力し、おもむろに携帯電話を取り出した。
どこかへかけて、待つこと少し。
『――長曾我部だ』
電話機から聞こえてきた声の主は、かねてより始末屋たちと関係のあった警察の暴力団専門部署、捜査四課の長曾我部刑事であった。
「お久しぶりです、鬼庭ですが」
『何だ、珍しいじゃないかテメェが電話をかけてくるなんざ。片倉はどうした』
「彼は今外していまして。……貴方に頼みたいことが」
『頼み?』
「ええ。例の薬がらみで少々困った事態になりましてね。表立って警察には動いて欲しくないものですから」
『捜査を止めろとでも言うのか』
携帯の向こうからでも明らかに不審をうかがわせる元親に緩く首を振って、綱元は話を切り出した。
魂消る悲鳴と共に死に物狂いで逃れようと暴れる細い肢体は、いとも簡単に押さえつけられてしまった。
腕の静脈に刺された注射器。青い液体――『ブルー・ヘブン』の濃度を極限まで高めたものだ――は政宗の抵抗もむなしく彼女の血液に
混じってじきに脳へ到達する。
「梵っ!! 畜生……明智、テメェ……ぶっ殺してやる……!」
注射器をしまい、急激な薬物投与のショックで全身を瘧のように震わせている政宗を床に横たえた光秀はふらつきながら身を起こした成実
に振り返った。
「絶望、怒り、無力感……あぁ……いい表情ですね……」
「変態が。テメェは警察に突き出すんじゃ足りねぇ」
吐き捨て、シザーケースから投げナイフを取り出す。もろに銃弾をくらった右肩は少し動かすだけで激痛が走ったが。
「その状態でよく我慢なさいますね。あぁ、頭が悪いと痛みも感じにくいのですか」
光秀の揶揄をきつい睨めつけで返し、血のりでぬめるナイフの柄をきつく握った。
確かに、殺傷力を持つほどのスピードを乗せて投げることはもう、いまの成実にはできない。両肩に銃創があるのだ。
「無駄です。ナイフと銃では勝負になりません。もう諦めたらどうですか?
負け犬は負け犬らしく、シッポを巻いてご主人様の元へ戻るもの……」
しかしその言葉を、光秀は言い終えることが出来なかった。
ひゅ、と鋭く空気を切り裂いて飛来した成実と同じ投げナイフが彼の首筋を切り裂いたのだ。
「……!」
動脈を切られたのか、傷口を押さえて膝をつく。
成実は投げていない。呆然とした表情でナイフの軌跡を辿ると、そこには。
「ツナ……、こじゅ!?」
地下室の入口が開き、ナイフを投擲した姿勢のままの小十郎と拳銃を構えた綱元が立っていた。
「少し遅かったですか」
満身創痍の成実と床に倒れた政宗を見遣って、綱元が眉をしかめる。
「明智は俺が片付ける。……政宗と成実を、頼む」
皮手袋を身に付け、投げナイフの予備をしまった小十郎は力が抜けて床にへたり込んだ成実からコンバットナイフを取り上げる。
「――了解」
本当は、自分が助け起こしたくて堪らないだろうに。
それでも、つけなければならないケジメというものがある。
短いいらえと共に成実へと歩み寄った綱元は肩を貸して立ち上がらせた。
「ひどい傷ですね……大丈夫ですか?」
銃創は全部で五つ。致命的な部分に傷は無いが、これだけ撃たれていれば出血多量で危険だ。
「おれはいい。梵を……はやく、病院に……っ」
「どうしたのです」
がくがくと震えて今にも崩れそうな膝を叱咤し、ぐったりしている政宗に近づこうともがく。
それを両手で支えてひとまず銃弾を避けて部屋の外へ連れ出した。
「あいつに……明智のやつに、『ブルー・ヘブン』を打たれたんだ。それも、大量に」
「……何?」
「何ですって!?」
痛みに荒くなる呼吸の間に告げられた事実に、小十郎と綱元の声が被る。
「早く処置しないと、薬物ショックをおこしちゃうよ……!」
光秀を警戒しつつ駆け寄った綱元は政宗の傍に屈みこみ、そっと抱き起こした。
冷たい。青白い肌はまるで生気がなく、息をしていなければ死んでいるかのように見える。
苦しげに顰められた眉。釦ごと引き裂かれて下着が覗く襟元。いまだに両手首を拘束している丈夫な紐。
想像以上の惨状に、胸が痛んだ。
成実の手から投げナイフを受け取り、紐を断ち切る。
「う……っ」
意識が無いかと思われた政宗は綱元の腕の中で僅かに身じろぐとちいさく呻いた。
「動かないで。大丈夫、小十郎が助けにきてくれましたからね」
「こじゅ……?」
うっすらと開かれた独つ目はしかし、虚ろに彷徨ったまま綱元の顔も認識していないようだ。
それでも、今にも泣きそうな顔で震える腕を伸ばし抱きついてくる。
「こじゅ……こじゅ……っ!」
うわごとのように何度も小十郎を呼んでしがみつく力は儚く、宥めるように背中を撫でてやりながら綱元は痛ましさに眉根を寄せた。
政宗に対するこの仕打ちを知ってなお、小十郎は光秀を殺さずにいられるだろうか……?
『ブルー・ヘブン』密売に関する総ての証拠を握る男なのだ。生かしておかねば、伊達組の立場が危うくなる。
成実から受け取ったコンバットナイフを手に、首筋の傷を押さえてよろめきつつ立ち上がった光秀の前へ。
「ようやく真打ち登場というところですか。もう少し早く来ていれば、あのお嬢さんは無傷で助かっていたかもしれませんね……」
「黙れ」
スーツを血に染めながらも凄絶な笑みを浮かべて見せた光秀。
「いつもお使いの銃はどうされましたか?」
痛みを感じていないのか特殊な趣味でも持ち合わせているのか、表情一つ変えずに拳銃を構える。
「まさか貴方までナイフで勝てるなどと思ってはいないでしょう。いたぶられたいというのなら止めはしませんが」
挑発的な言葉に思わず左手がショルダーホルスターへ伸びそうになる。
だが、それは駄目だ。M500などという大口径の銃ではうっかり引導を渡すことになりかねない。
光秀は生きたまま、警察の手に渡す。小十郎の理性はそうすべきだと告げている。
(……しかし、こいつは)
政宗に取り返しのつかないことをしたのだ。眩暈を覚えるほどの怒りが『命を持って償わせてやる』と囁いている。
「……小十郎、いけません。ここで明智を殺しては伊達組が」
逡巡する小十郎の気配を察したのだろう、政宗を抱えて下がった綱元が釘を刺す。
「分かってる」
コンバットナイフを床へ投げ捨てて。
「分かっているさ」
左手を上着の内側へ入れながらじり、とすり足で間合いを計る。
「だがこの落とし前はキッチリつけてもらう」
光秀を、殺すのか。それとも。
「もうその傷では撃てねぇだろう。立っているのもやっとじゃないのか」
真正面から相対しているのに撃とうとしない光秀。何かを企んでいるのか……?
「観念しろ。じきここには警察がやってくる。もう逃げられんぞ」
光秀の部下達は既に成実が行動不能にしている。残っていた者も小十郎と綱元で一掃した。残っているのは、光秀だけ。
「ククク……」
「何がおかしい」
突然肩を震わせて笑い出した光秀に眉を顰めた。
「つくづく甘い方だ……私たちが警察ごときにバレるような証拠を残しているとお思いですか? 伊達組の嫌疑は揺るぎようがない。ここで私
を警察へ引き渡しても意味などないのですよ。例のリストも、オリジナルはすでに蘭丸が破壊している頃です」
「……なに」
「おかしいとは思いませんでしたか? 厚生局の動きが緩慢過ぎると。信長公……我らが総長殿は顔のきく方でしてね」
「!?」
ゆっくりと、一言ずつ打ち込まれる言葉の楔。
(彼らの手は公安にまで及んでいたということですか)
表情を動かすことなく光秀を睨み続けている小十郎の背後で綱元は臍をかむ。
証拠を探し奔走していた自分たちは見事に踊らされていたというわけか……!
「もう伊達組はお終いです。こんな時に我々と抗争をしても、寿命を縮めるだけですねぇ」
心底愉しそうにくつくつと笑って。
「片倉、貴方は哀れな人だ。一度織田組に総てを奪われたというのに、また同じ事を繰り返すとは」
今度は暴走族ひとつでは済みませんよ。文字通り、『すべて』を失うのです。
社会的生命も、拠るべき場所も、愛する人も。
奥歯を噛み締めている小十郎にそう言葉を続け、拳銃のトリガーに指をかけた。
「……ついでにここで死になさい」
「小十郎!」
綱元が背後で叫んでいる。
その声が耳に入る前、既に彼は上着の内側から銃を引き出していた。
総てを失ったどん底から這い上がる自分と共に歩んできた相棒を。
S&W M500 ハンターモデル。世界最強の、大口径拳銃。
「御託はそれだけか」
カチリ。
小さな音を立てて、安全装置が外れる。
「ヤクザの抗争なんぞ、どうでもいい」
互いに銃口を向け合ったまま、動かない。
強大な反動に備えてしっかりとグリップを握った左手の親指が、激鉄を上げた。
成実と綱元が固唾を呑んで見守る中。
「政宗を傷つけたことを、その身を以って償え!」
そして。
二つの銃声が、折り重なるように轟いた。
「小十郎!! ……っ、成実、政宗を頼みます」
互いに撃ったのは一発だけ。どちらも倒れない。
部屋の外からではどうなったのか判らず、焦りの表情を滲ませた綱元が抱きかかえていた政宗を成実に預けると部屋に駆け込んでいった。
「無事ですか!?」
「…………」
銃を撃った姿勢のまま動かない小十郎と光秀。距離が近いだけに互いに外しようが無い。
まさか相撃ち……?
立ち尽くす光秀へ油断なく銃を向けながら小十郎の傍らに立つ。
「……終わった」
「え?」
「もうすぐサツが来るんだろう。行くぞ、綱元」
状況が飲み込めず、小十郎のほうへ顔を向けると、真新しい穴が開いたコートの襟が焦げ臭い匂いを放っていた。
「明智は……?」
どうなったのかと綱元が視線を光秀に移した、まさにその時。
目を見開いたままの彼は銃を取り落とし、真後ろに斃れるところであった……。
「殺したのですか」
「呆けたか。よく見ろ、気絶しているだけだ」
ふん、と鼻を鳴らした小十郎に促され光秀の後にある壁を見ると、44マグナムの実に三倍はある威力を持つ50口径弾がコンクリートに凄
まじい弾痕を作っている。
「奴の頭を掠めるように撃った。衝撃波で暫くは目覚めまい。……明智には、刑務所でケジメを付けさせるさ」
「小十郎……」
銃をホルスターへ収め、コートを翻して歩き出した小十郎の後を追いながら、こっそりと嘆息した。
(無茶をする……一歩間違えば致命傷を負っていたかもしれないのに)
それでも、他の誰でもない自分自身が真正面から立ち向かいたかったのだろう。
彼女の、ために。
「……成実、もう少ししたら警察がここへ来る。綱元が長曾我部に連絡を入れたんだ。それまで、政宗のことを……」
壁に身を預け、殆ど意識の無い政宗を抱えている成実と視線を合わせるように膝をついて頭を下げた。
「何処へ行くんだよ」
「ケリをつけに行く。ここから先は伊達組とは無関係、俺個人の感情で動くことだ」
蒼白な顔で瞳を閉ざしている政宗の目じりに残る涙をそっと拭い、冷たい頬を撫でて。
光秀によって引き裂かれた襟元から覗いた、チェーンで首にかけた指輪へ視線が止まる。
「この子を……政宗を、大事にしてやってくれ」
揺れる感情を押し隠すように瞑目。
きつく握った掌。
それでも、声は静かに端然としたままで。
「何をするつもりだ」
憮然としたような哀しいような、なんとも言えない表情の成実。言わずもがなの質問をせずにはいられなくて。
ここで小十郎を止めなければ、彼がとんでもなく遠いところへ行ってしまう。そんな予感が胸をよぎる。
「……じゃあな」
名残惜しげに手を離し、ゆっくりと立ち上がった小十郎へ痛みを忘れたかのように声を振り絞った。
「やっぱりこじゅ、あんた最低だ」
綱元を従えて去り際、立ち止まり振り返ることもなく顎を引くように頷いて、それが最後であった。
「最低だ……勝てるわけねえよ、ちくしょう、ちくしょう……っ!」
誰も居なくなった通路で政宗を抱きしめて小十郎を詰った成実の頬を熱い雫が伝う。
パトカーと救急車のサイレンが遠くから聞こえだしていた。
「綱元、頼みがある」
長曾我部ら警察が現場に踏み込んでくる前にその場を去った始末屋二人は、互いに無言のまま車を走らせていた。
最初に口を開いたのは小十郎。
「ついてくるな、はナシですよ。何を今更」
ハンドルを握りながら呆れたように返す綱元。助手席で上着を脱ぎ、ショルダーホルスターを外した小十郎はそれを銃ごと後部座席へ投げる。
これから果たすべき目的に銃は必須のはずだが……?
「これから俺がやることについて、伊達組へ関与の疑いが持たれるのは必至だ。お前は残って総長との関わりがあった一切の証拠を消せ」
代わりにダッシュボードから取り出したのは、古びてはいるがよく手入れされた大振りのナイフ。
「残って……って、貴方まさか」
「死んでやるつもりはねぇ。だが、責任は取るつもりだ」
織田組を完全に潰す。そのために、総長――信長は生かしておくわけには行かない。
捜査の手が伊達組に向く前に、自分が個人としてやったと自首すればすべては丸く収まるはずだ。
鞘から抜き出し、丹念に磨きこまれた刃を布で丁寧に拭う。
過去の清算、政宗への仕打ちに対する報復。伊達組を守ることになるそれらの理由は紛れもなく彼の真実であったけれど。
そんなことをすれば小十郎がどんな目に遭うかを思えば、綱元は「止めなさい」と制止する言葉が喉元まで出かかる。
だが、それはもはや不可能であることを悟っていた。
「……すみません」
「何を謝る。勘違いするなよ、誰のためでもないことだ」
自分のためにやることだと告げる小十郎。敢えてそのように言い切った彼の言葉に綱元は辛そうに目を伏せた。
「しかし、その武器では」
銃に比べ、刃物で相手を倒すというのは危険であり、至難だ。返り討ちされる可能性が高い武器を選ぶのは一体何故?
「ナイフを使うのは俺なりの仁義だ。……テメェが最初に教えたのはコレの使い方だろう」
(『いいですか、暗殺術というのは相手との距離が近ければ近いほど難易度が高くなります。ターゲットに気取られぬよう背後に忍び寄り、
ナイフで止めを刺す。これができれば銃など物の数ではありません』)
かつて、小十郎と共に始末屋稼業を始める前に行ったトレーニングで彼に訓えたことが脳裏に蘇る。
「今の俺があるのは綱元、テメェがいたからだ。最後に手間かけさせて悪いが、頼まれついでにもう一つ」
「……わかりました、もう何も言わなくて良い。伊達組との争いを煽って、信長の周りから人を減らしておきます」
そう言いたいのですよね?
彼らの住居である雑居ビルに車を止め、小十郎を下ろした綱元はいつもの穏やかな微笑で彼を見送った。
「今夜、伊達組は織田組の本部に殴りこみをかけます。ころあいを見て、潜入してください」
「あぁ。総長にはワビを入れておいてくれ」
ナイフを固定した皮製のホルダーを上着の下につけた小十郎は綱元との別れ際にニヤリと凄絶な笑みを残した。
信長を殺すのは飽くまでも自分自身の復讐心を満足させるため。
ヘッドを潰せば総てが終わる、というわけではない。戦国時代の戦争ならば大将を討ち取ればそれまでであろうがヤクザ同士の戦いは
違う。
ことがうまく運んだとして、伊達組はこれからが大変なのだ。それを、綱元に押し付けてしまうのは躊躇われないでもないが……。
状況が動くまでにまだ間がある。風呂に入って身を清め、光秀の銃弾によって穴が開いたコートを着替えた小十郎はふとベッドの上に
テディベアが乗っていることに気付いた。
政宗が荷物をまとめた時に忘れていったのだろう。水色のリボンを首に結んだそれは寂しそうにちょこんと座っている。
「置いていかれてしまったのか。可哀想に」
いつも大事そうに抱えられていたぬいぐるみを取り上げ、思わず声をかけてしまう。
そんな自分に軽く笑って。
リビングにでも置いておいてやろう。綱元か成実が気付いて彼女の元へ持って行くはずだ。
と、部屋を出かけて立ち止まる。そのままライティングデスクへ戻り、小さなメモ紙へ何かを書き付けると、細く折ってリボンの内側へ挟み
込んだ。
「……そろそろ、時間だな」
メモを託したテディベアをソファの上に座らせ、表情を厳しくした小十郎は目的を果たすべく部屋を後にした。
もう戻ってくることもあるまい。そんな想いから後ろ髪引かれる寂寥感を振り払って。
攫われた政宗が『ブルー・ヘブン』を大量に投与され、成実が重症を負ったことを知らされた輝宗は激昂することもなく静かに抗争の開始を
号令した。
内心、はらわたが煮えくり返る思いをしていただろうがそこは流石に弁えたもので、ドスのきいた声でただ一言、
「……やれ」
と顎をしゃくって見せた。
殴りこみの指示を今や遅しと待ち構えていた若手の組員たちが織田組本部へなだれ込む。
ついに、戦後以来最大の暴力団同士による全面対決が始まったのだ。
それにしたって何の策もないように見える、無謀とさえ思えるこの動きはどうだ。
「総長……少し、やりかたがストレートすぎませんか」
織田組の反撃に備えて防備を固める動きが慌だたしくなる中、革張りの椅子にどっかりと腰を下ろした輝宗へ表情を顰めた綱元が問い
ただす。
「喧嘩は派手にやるものだろうが。今更織田組相手に下手な小細工は通用せん。それに、できるだけ騒ぎ立てねば片倉が動けないのでは
ないかね?」
「!」
何故それを!? と瞠目する綱元。
「大まかな話は成実から聞いておる。あやつ、梵ちゃ……あ、いや政宗のことを好いているそうじゃないか。それに以前、本人から言われているからな」
「何をですか?」
携帯電話を使って部下たちへ忙しく指示を飛ばす合間を縫って器用に話を継いでゆく。
「織田組の総長への復讐を果たすまでは伊達組には入らないと」
「……恐れ入りました」
「片倉も律儀な男よ。わし個人としては、復讐などやめておけ……と言いたいところだがな。気持ちは解らんでもない」
ケジメをつけて身奇麗にならないうちは何処にも所属しない。彼なりの矜持、というよりも意地に近いその義理堅さは好ましいと温和な笑
顔で輝宗は言った。
「そういうことだったんですか」
単に他人へ跪くことを良しとしない、一匹狼的な誇りからくるものだと思っていた綱元は初めて知った事実に嘆息する。
織田組総長を殺害し、更にその罪を償って初めて輝宗への仁義を通せるのだという小十郎の頑ななまでの決意を彼らしいと思う反面、歯
がゆくもなる。
成功しても失敗しても、その先にあるものは辛い結末だというのに。
「わしらは自分の仕事をすれば良い。鬼庭、おまえも解っているだろう?」
表情を曇らせる綱元。後は本人に任せるしかないのだと輝宗はがっしりとした手で肩を叩いて話はそれきりになった。
もう、彼にしてやれることはひとつしかないのだ。
織田組、本部ビルの裏手。
いつもなら厳重な警戒態勢を布いており必ず数人の組員が守っているのだが、今は真正面から殴り込みをかけてきた伊達組の異常な
ほどの攻勢に対応するためか、老練な雰囲気の古株構成員ひとりだけだ。
足音を殺し、死角へと回り込む。
内部の騒ぎが気になるらしく、ちらちらと表通りを窺う見張りは隙だらけだった。
物陰から素早く周りを走査。――監視カメラは、三台。時折無線でやり取りしているところからして、見張りを殺せばすぐにバレるだろう。
(連絡が途絶えて侵入が発覚するまで、もって五分か)
トレードマークとも言える茶色のコートではなく、一般の組員たちに紛れるダークスーツにいつも後に流している髪を下ろした小十郎は一見
別人に見える。
(それだけあれば上等)
薄暗がりの中、危険な角度に釣りあがった唇の端が笑みを形作った。
「おい、伊達組の野郎が裏へ回ったぞ!」
唐突に聞こえてきた叫び声に見張りの組員は色めきたった。
「誰か来てくれーっ!」
人数が多いのか、加勢を求めている。
「チッ、表の連中はなにをやってやがる」
持ち場を離れることに暫し逡巡を見せた組員だったが、かなり切羽詰っているらしい声に舌打ちすると声のするほうへ駆け出した。
監視カメラの届かないところへ踏み込んだ瞬間。
「――!」
物陰から伸びた手が組員を暗がりへ引きずり込んだ。
(フン、他愛ない)
鳩尾への拳一発で見張りを黙らせ、素早く着衣を脱がせた小十郎は組員に成りすますべくそれを着込む。
丈夫な紐で手足を縛り上げ、見つかりにくい路地裏へ転がすと無線機を手に取った。
『……おい、どうした。持ち場を離れるな』
「あぁ、すまん。ちょっと小便をしたくなって」
『おいおい、緊張感がねえなオッサン。……声、おかしくないか?』
「風邪気味なんだ」
げほげほ。無線に向かって咳をして見せた小十郎はいそいそと裏口へ向かう。
『しっかりしてくれよ、あいつらにそっちへ回られたら防ぎきれねぇ。なにせ連中、えれぇ勢いでブッ込んで来てやがる』
「大丈夫だ。すぐ戻る」
そう答えると、監視カメラの向きが入口から逸れた瞬間に中へ身を滑らせた。
タイムリミットは五分。それまでに、信長の居る部屋まで行かなければならない。
非常階段を駆け上がりながらカウント開始。
綱元が言った通り伊達組の攻撃が激しいらしく、本部内に人の気配は少なかった。もしかすると、報復のために伊達組へも人員が向かっ
ているのかもしれない。
(急がなければ)
逸る気持ちを抑え、慎重に辺りを窺う。
時間をかけて収拾していた情報から、大方の居場所はわかっている。あとはその近くに潜んで信長が出てくるのを待つだけだ。
三分前。
無線のスイッチを切る。
服の下に隠していたナイフを取り出し、鋭利なエッジごしに総長室のドアを睨んだ。
(出て来い)
決着をつけてやる。
二分前。
(出て来い)
これが始末屋としての最後の仕事だと決めていた。
一分前。
(出て来やがれ……!)
左手の薬指に光る指輪を意識した。
一瞬だけ瞑目し、軽く指輪に口付けて。
顔を上げたときにはもう胸を刺す切なさを凍りつかせた、始末屋の顔に戻っている。
(クソッ、時間が)
タイムアウトまで後数秒。もはやこれまでかと特攻の覚悟を決めた小十郎の目の前で、ついに総長室のドアが開いた。
(!)
間違いない、ヤツだ!
護衛の組員もつけず、妻である女性を伴っているだけの信長の姿に小十郎の血は滾った。
長い間、この時を待っていたのだ。過去の清算のために。
それよりもなお強く想う、最愛の女性の仇を討つために。
背を向けて廊下を歩くその後姿へ、気配を殺して忍び寄る。
呼吸を整え、止めた。
感情はもう動かない。
静かに凍りついた瞳に煌く、純然たる殺意。
そろり。揺るぎもしない手を伸ばし。
悪魔のような手際で刹那、閃いたナイフが背後から信長の頚動脈を掻き切った。
「――!!」
驚愕と憤怒を滲ませた顔が振り返り、彼の手が懐の銃へ伸びて。
「……うぬは」
返す刀で胸を一突きにする!
「ぐぅっ」
「総長!! ……始末屋……っ!」
傍らに居た妻――帰蝶が悲鳴のような声を上げる。
腕を伸ばして掴もうとする信長から離れ、血まみれのナイフをひっさげた小十郎は地の底から響くような、まったく容赦のない声音で
引導を渡す。
「滅びはテメェが招いたんだ……覚悟してたろ? ……政宗の仇だ。彼女を傷つけたことを地獄で後悔しな」
小十郎に触れることなく床へ斃れた信長を見下ろして。銃を取り出そうとする帰蝶へ牽制するかのような一瞥を投げた。
「動くな。声を出せば、すぐに夫の後を追わせてやる」
「……!!」
びく、と身を震わせて動きを止めた彼女へ一瞬哀れみにも似た視線を向け、だがすぐに冷酷な暗殺者の表情に立ち戻る。
ナイフの切っ先を向けたまま数歩後ずさり。
「あばよ」
廊下の角で身を翻し、走り去った。
「ついにおっぱじめやがったな……総長の娘が誘拐されたんじゃ、無理もねえか」
伊達組と織田組の抗争が始まった、との通報を受けてにわかに慌だたしくなる捜査四課の自分のデスクでつい先ほど政宗たちを保護して
戻った元親は盛大に溜息をついた。
総長の娘である政宗は今、病院へ運ばれ集中治療室で薬物中毒の処置を受けている。
彼女を助けに行って五発もの銃弾を受けた成実も同様だ。
首筋への傷から大量出血している光秀は、手当てが終わり次第逮捕されることとなった。
あの現場には光秀が持っていたものとは別の薬莢と弾痕が残されていたが、それについては追求しないよう働きかけている。
そう。あの弾痕――M500専用の50口径弾を使う者は元親が知る限り一人しか居ない。
そして、『そこには居ないはずの』人間なのだ。
機動隊を動員して鎮圧にかかる準備で上を下への騒ぎになっている捜査四課オフィスの内線電話が鳴ったのはその時だった。
「四課だ」
このクソ忙しい時に! といわんばかりの不機嫌さで電話に出た元親。
警察署入口の受付からだ。
「何の用だ。忙しいのは分かってるだろう?」
『すみません……長曾我部警部補に会いたいという方が来ているのですが』
怒鳴るような元親の声に受付の婦警がやや怯えたように答える。
「あ!? 誰だ」
『あの……片倉だと言っています。それで分かると』
小十郎が!? こんな時に、何故?
「分かった。直ぐに行く」
受話器を叩きつけるように置いて、近くに居た同僚へ二、三言付けると一階受付へ降りていった。
「どうした。てっきりテメェもあの騒ぎに駆り出されているとばかり思ってたぜ」
普段と明らかに様子が違う小十郎に軽く驚きの表情を見せる。
(なんだ、この異様な雰囲気は。まるで憑き物が落ちたみてぇにスッキリしているくせにひどく憔悴してやがる)
胡乱な目で二人を窺う婦警の視線を避けて警察署を出て、人目の無い駐車場へ場所を移した。
「……明智は逮捕したのか」
「あぁ……今、やつは病院だ。傷の手当てが終わり次第そうなる」
「政宗と成実は」
「誘拐された女の子か? 彼女は『ブルー・ヘブン』を大量に打たれていたからな。中毒を起こしているらしい」
「無事なのか!?」
「おいおい、なんだよいきなり。そんなに気になるなら病院へ行けばいいだろう。……以前捜索願が出されていないか調べていたのはあの
子だな? 伊達組総長の娘だったそうじゃねえか」
それまでの態度から一変、急き込むように質問を重ねる小十郎を押し止めて「病院の場所を教えてやる。こっちは忙しいんだからさっさと
行っちまえ」と追い払おうとした。
「いや……それはできねえ」
「あぁ?」
うつ向き気味にそう呟いて、意を決したように顔を上げ。
「たった今、織田組の総長を……信長を、殺ってきた」
服の下に隠していた血みどろのナイフを元親に差し出した。
「な、なに!?」
「自首しに来た。織田組の総長を、俺が殺した」
あまりのことに思考が止まりそうだ。信長が、死んだ!?
「ちょ……おま……っ、ほ、本当か?」
「嘘をついてどうする。これで抗争は沈静化するだろう。元親、俺を逮捕しろ」
そう言って両手を揃えて前に出した小十郎。頭の中で最前の言葉を反芻し、思わずよろめいた元親は側に駐車してあったパトカーに掌を
ついてしまう。
「織田組の総長が……」
俄に信じがたい。己が組長を務めていたヤクザ一家を織田組に壊滅させられ、それ以来信長を逮捕するべく警察官になった元親にとって
それはあまりに衝撃的なことであった。
が、手渡されたナイフにべっとりとついた血の生々しさが何よりも如実に事実を告げていて。
「……死んだ、だと」
搾り出すような声がまるで別人のもののよう。
ハンカチ越しにナイフを握り締めた手が震える。急激に襲ってきた脱力感に膝が崩れそうだ。
麻痺しかける頭の中で元親は今、何かが終わったのだと安堵にも似た感情が去来するのを感じていた。
後に残ったのは、刑事としての使命だけ。
「200X年12月31日、午後10時20分。――片倉小十郎、殺人容疑で逮捕する」
ポケットから手錠を取り出し、腕時計で時間を確認し――。
小十郎の手首に、それをかけた。
「……テメェは馬鹿だ。同情の余地もねえ、本物の馬鹿だ」
「迷惑をかける」
上着を脱ぎ、手錠をかけた手首を隠すように巻きつけながら「馬鹿野郎」と繰り返す。
微かに涙ぐんだ声音で。
「だが……」
その後に続いた言葉を、小十郎は聞かなかったことにした。警察官としての彼は決して口にしてはならないことだったから。
『礼を言う』という呟きを。
伊達組の総長令嬢拉致から始まった東西二大ヤクザの抗争は、信長逝去の報がもたらされると同時に大規模な鎮圧隊を送り込んだ警察
によって終幕が引かれた。
そして意外なことに『ブルー・ヘブン』密売の嫌疑は匿名の通報により補導された小学生ハッカーの供述で織田組へと向くことになった。
未成年者略取・銃刀法違反・傷害などの罪で既に逮捕されていた織田組幹部、明智光秀は容疑を否認しているが政宗へ件の薬を投与し
ている点から再逮捕は明らかだ。
「よぅ、『潜水夫』。やっとオフで会えたな。……アンタがあの有名なヤクザの御曹司とは知らなかったぜ」
騒乱の夜から数日。
元親が手配した救急車で政宗と共に搬送された病院でそのまま療養することになった成実の病室へ見慣れぬ若い男が訪ねてきた。
「誰?」
「あーそうか、声も変えてたから。俺は『覗き屋』だよ。それにしても酷い傷だな?」
年のころは大学生くらい。『覗き屋』のファッションとは似ても似つかぬ真面目そうな青年はベッド脇へ丸いすを引っ張ってくると腰を下ろした。
「警察に無理言ってアンタの居場所を教えてもらったんだ。そしたら撃たれて入院してるっていうじゃないか。結局あの後、ヤクザと戦争しに
行ったのか」
「まぁな。悪いけど詳しい話はパス。……蘭丸のことを通報したのはトム、お前か」
すべての四肢をやられていて殆ど身体を動かせない成実の背を支えて起こしてやるトムに訊くまでも無いけど、と尋ねる。
その問いに首肯して。
「障壁ぶちこわしてデータをコピーして行った後、アンタそのままにして消えただろ? あれを見過ごすようじゃ『覗き屋』は看板下ろさなきゃ
ならないからな」
「やっぱり着いてきていたのかぁ。危ないから止めろって言ったのに」
「結果オーライだろ」
「懲りてねえし」
「これで『潜水夫』の武勇伝がまた一つ増えたってか。なぁ、この話ブログで書いていい?」
「……断る」
どこか愉しげに語るトムに呆れたような溜息ひとつ。
それからの事後処理は綱元の手で進められ、始末屋と伊達組の関わりは完璧に隠蔽された。
織田組総長・信長の殺害については小十郎の私怨であり、過去の怨恨を晴らすため、という理由であっさりと完結してしまった。
総長と重要な幹部を失った織田組は厚生局の捜査をかわすことができず、事実上解散の憂き目を見ることとなり、ここに西日本最大の
暴力団は消滅した。
ニュースでは信長殺害と共にドラッグ密売組織の摘発を連日報道している。
「あ、総長来てたんですか。……このたびはどうも、ご迷惑をおかけしました」
成実の病室へ家から身の回りのものを持ってやってきた綱元はベッドサイドに座って何やら話している二人を見止めて深々と頭を下げた。
「いや、謝るのはこちらのほうだ。なにもかもを片倉に押し付ける形になったのは仕方ないことだったとはいえ」
「……彼にとっては他の誰かのためではなかったのですから、その話はもう。ところで今日はお嬢様のお見舞いで?」
十数年ぶりに再会を果たした父娘だったが、その娘は大量に麻薬を投与されたショックで意識不明のままであった。
命を取り留めたのが奇跡だとまで言われたほどで、輝宗は抗争の事後処理や彼女の母である義との再婚に向けた話し合いの間を縫って
毎日病院を訪れていた。
「そうだ。……あの子には申し訳ないことをしてしまったが……眠ったままでは謝ることもできん」
力なくうなだれる輝宗を痛ましげに見遣って綱元は声をかけることも出来ない。
「伯父貴、ごめんな。おれたちが守ってやらなきゃいけなかったのに」
「お前たちに責任はない」
「……梵は必ず良くなるよ」
成実は病院に搬送されてから一度も政宗と顔をあわせていなかった。それでも彼女が意識を失う直前まで小十郎の名を呼び続けていた
ことを知っている。
「あいつが、こじゅが戻ってくるのを待ってるんだ。待たなきゃいけないんだ……」
完璧に振られてしまったけれど、変わらずかけがえのない大切な従姉を信じていると。
その、小十郎といえば。
元親のところへ出頭してから逮捕、起訴までは異例の速さで進んだ。
というのも本人の供述が疑う余地もなく証人もいたからで、すでに検察は裁判の準備に入っていた。
取調べでは終始淡々と事実だけを語り、伊達組との関連を……依頼されて殺害したのではないかとの疑いを完全に否定してあくまでも
『――私怨』であるとの姿勢を崩さなかった。
穏やか過ぎてとても殺人者には見えないと取り調べ担当官は後になって元親にこぼしたものだ。
政宗が一命を取りとめ、後日意識を取り戻したという連絡を受けて、すべての目的を果たしてしまった小十郎は取り調べの最後に「これで
もう思い残すことは何もない」と語っている。
裁判の結果がどうなろうと、謹んで受け入れよう。
これ以上失うものなど何もない自分に残されたものはもうそれだけなのだから。
公判はかつてないほどの傍聴希望者を集めて始まったが、原告側の不在もありほんの数ヶ月で判決を迎えてしまった。
原告の求刑は懲役八年と長いものであったが、かつて半死半生の目に遭わされているということと今ひとつの理由である政宗への仕打
ち、そして小十郎に悔悛の情が強いことを考慮して全面的に退けられた。
――実刑・懲役五年。
それは、殺人罪への刑罰としては最も軽いものである。
傍聴席から綱元と元親が複雑な表情で見つめる中、判決文を読み上げた裁判官に小十郎は深々とお辞儀をしたのだった。
(これで、すべて終わった。……政宗)
控訴審もなくあっさりと裁判は終わり、小十郎が刑務所へ護送される日。
いつの間にか季節は移ろい、すっかり桜の頃になっていた。
「よう」
警察官に連れられ、護送車へ乗るべく留置所から出てきた小十郎を出迎えたのは相変わらず派手な上着を肩にかけただけといういでたち
の元親である。
「俺がテメェを連れて行くことになった。ちょいと担当部署が忙しくてな。ま、乗れや」
ごく軽い語調で乗車を促された小十郎の後について乗り込もうとした警察官を手だけで制して。
「もうここでいいぞ。こんな覇気のない奴の護送なんぞ俺一人で十分だ」
「……」
無言の威圧に固まった警官に見送られ、二人の乗った車は走り出した。
「ほれ」
車が動き出して暫く。ずっと無言でハンドルを握っていた元親が後部座席の小十郎に拳を突き出した。
「何だ?」
「預かっていてやったぞ。刑務所長には『結婚指輪だから』と言ってある。つけてろ」
開かれた掌の中にあったのは、クリスマスプレゼントに政宗と二人で買った、あのシルバーリングだ。
「……!?」
言葉遣いこそぶっきらぼうであったが。
「あのお嬢ちゃんな、ずーっとそれの対になるやつをつけたままなんだってよ」
受け取った指輪を見つめる小十郎の表情が哀しげに歪められる。
「ちゃんと気持ちに応えてやれよ」
あんなに酷い別れ方をしたというのに、それでも自分への想いを持ち続けているなんて。
幸せにしてやりたかった。咲き零れるような笑顔を見ていたかった。
あの街で、ずっと二人で居られたらと。
それはもう叶わぬ夢だと、だから自分ではない他の誰かと……。
(だが、俺は)
指輪を握り締めて、俯いたまま唇を噛み締めた。
ウソだ。諦めたくなんかなかったのだ。今でもなお、想いはここにある。
「必ず、戻って来い」
「……あぁ」
刑務所へ続く一本道は、両脇の桜並木がちょうど見ごろを迎えている。
そこへさしかかったところで唐突に、元親は窓を開けた。
「片倉、見てみろ。いい具合に見ごろじゃないか」
ゆるやかな風に薄紅色の花弁が舞い散る。ややスピードを落とした車の窓から言われたとおり見事に咲き誇る桜を眺めてほんの少しだけ
表情をゆるめた。
その、時。
「……! 政宗……」
桜並木の下、散った花弁に覆われた歩道の上に。
車椅子に乗り、成実に付き添われた彼女が。
風でかき乱される髪を押さえる顔はまだ青白かったが、僅かに微笑んでいるようだった。
(「――!」)
車中の小十郎を見つめて何事かを叫ぶ。風に攫われた声は小十郎の耳に届くことはなかったが、確かにその唇は『ずっと待ってるから』
と動いたのだ。
(……あぁ!)
それはほんの一瞬のこと。けれど、白い頬を伝った涙も、立ち上がろうとしてよろめき、成実に支えられたのも目に焼き付けて。
我知らず泣いていたことに気付き、そっと袖で拭う。
今まで自分を待っていてくれる人など、居なかった。
心から誰かを欲したことなどなかった。
けれど今は。
掌の指輪を、左の薬指へ。
決して消えぬ輝きを抱いた想いは胸に。
務めを果たし、帰ってくるときには彼女に告げよう。『愛している』と。
それまで、どうか幸せに。
いくつも巡り来る春に祈り続けよう。
愛しき人よ。
THE END
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ここまでお付き合いいただきましてありがとうございましたm(_ _)m
最終話を書く間、ずっと福山雅治の『桜坂』を聞いておりました。
エンディングテーマみたいな(笑)
実は微妙に伏線が残っていることにお気づきでしょうか?